MINAMATA

5月9日10日と、患者さんたち30人と島原を旅しました。対岸の島から船で渡ってきた方たちを「丸島港」で出迎えて、そのあとバスで水俣や芦北の方たちを迎えて。

道中のガイドさんは参加の患者さんの同級生の娘さん。イノシシの話に始まり、「私は昨日は代掻きをしてきました」とか、「この地域の田植えは何月何日頃にあって早いんですよ」とか、「稲刈りをした後はこの辺りには黄色い花が満開になってきれいです」とか、昔の人が自然の中でどう生きてきたかなど、彼女の興味を聞く私はとても楽しくなりました。

今回の私たちの目的地は島原と雲仙。最初に訪ねた口之津歴史民族資料館は、口之津港を降りて、漁村の中にある車一台が通れるくらいのアーチ型の真っ赤な橋を渡ったところにありました。周辺の貧しい農家から東南アジアに売られていった「からゆきさん」に関する歴史や、明治時代の三井の三池石炭の海外積出し港としての役割を果たしていた時代に移り住み厳しい環境の中で重労働した与論島の人たちの歴史を学びました。 たくさんの「実物」の迫力に圧倒されながら、水俣病歴史考証館で働く私にとって、とても勉強になる展示でしたが、患者の人たちからも、「俺の父ちゃんは三池炭鉱に出稼ぎに行きよったもんな」「このヒツはうちでも使いよったばい」「からゆきさんは可哀想て思うやろう?しかしな、日本はこれだけじゃなかっばい。外国の人らば従軍慰安婦にしてきた歴史もあるち、知らんやろ?日本とはそげん恐ろしか国ばいた」と次々に言葉が出てきました。ただ、名物館長がおられなかったのが残念。

その後、島原に入ったところで、諫早干拓反対をし、海苔の養殖を続ける「師匠」こと篠塚さんが、私たちのために美味しい海苔を陣中見舞いしてくれました。私はこの海苔の味が大好きでよく食べています。海苔は、宴会や二次会でみんなでごちそうになり、またお土産にするぐらいたっぷりありました。海で仕事をする方にとっては篠塚さんの話は興味深いようで、海苔の生育の話を聞き、ご自身もアオサやひじきの話をされていました。笑顔の深い篠塚さんに導かれて、諫早のことを、もっとちゃんと学びたい、と思います。

ゆっくりと温泉に浸かって、宴会の始まりです。みなさん衣装を持参しておられ、曲に合わせて赤ちゃんの人形をおぶったり、ほっかむりをしたり野良仕事をしたり、岸壁の母では杖をついて踊ったり、ひょっとこやおかめさんのお面をしたり。あっという間の三時間。もちろん私もずっと踊っていました。

宴会の終わり方、マイクを持った人たちが、「いまの蒲島知事は、私らの集落の人間ば含めて、先月は40人以上ば棄却しました。こげん横暴は許されません。今度の知事選では、水俣病の人間の気持ちの分かる知事ば、私らの中から出せんもんでしょうか」「水俣病という病名を変えろという話があるけども、そげん簡単な話じゃなかっばい。病名ば変えたっちゃ、なーんも解決せんとばい」と問題提起をします。とても重要な話だと、みんなで耳を傾けました。

宴会が終わってから部屋に戻って二次会です。島の人と、水俣や芦北の人とでは、語りのスピードはずいぶん違います。ついていくのは大変です。水俣病のこと、漁のこと、お漬物のこと、料理のこと、誰かと喧嘩した話、健康法。艶話なんて聞いていて本当に面白い。歳を重ねた方たちの語りの奥深いこと。

今回は夫婦で参加なさった方が六組おられました。「おげんかか(俺の妻)」という言葉は島も水俣も共通。「これば、おげんかかに渡してくれろ」とか「おげんかかは、こげんもじょかったっばい(可愛かった)」という言葉が飛び交うたびに、心が少し、あったかくなりました。

帰りのフェリーの中では、今回初めて参加なさった方お二人が、ご自身の体験を競うようにして語って聞かせてくださいました。 小学校の校庭の隣にチッソ付属病院があり、そこにはたくさんの「猫舎」が置かれていて、猫が猫背をひどくしたような体勢になって前に何度もでんぐり返りをする異様な光景をよく見ていたよ。とか、漁師たちが丸太を抱えてチッソの正門をぶち破って突入するのを俺はこの目で見たもんな、とか、俺の隣のおじさんがチッソに勤めておって「水銀は夜にじゃんじゃん流せて上から指導ば受けた」と言っていて本当にチッソは「ずさん」やった、とか。百間排水口の水路が臭くて臭くてとか。

「水俣病患者の第一号は誰じゃい?」と聞いてこられた70代あたまの方。私は教科書どおり「公式には1956(昭和31)年の田中実子さんですが、1953(昭和28)年の溝口トヨ子さんが第一号です」と答えると、「俺は違うて思うとたい、俺の本当は違うとたい」と言われます。「俺が6歳の時にな、隣の○○さんの奥さんが、父ちゃんがおかしなったち言うて、俺の家に逃げてきとらしたもん。俺は怖くてな。あれが第一号て思うとたい」。そう言われて私は教科書どおりの答えは違うんだったと思って、「1941(昭和16)年に水俣病様の症状を持った方が確認されています。その方が第一号といえばそうかもしれません」と言うと、「そぎゃんこつは、俺は知らんたい。俺の本当は、第一号は隣の○○さんたい」と言います。そして、こどもの頃の恐怖や自分の周辺が水俣病に侵されていったことを語られます。私は、この方の「本当」を聞かず、自分の知識や正しさを伝えた自分が、恥ずかしくなりました。彼はそのことを知りたかったんじゃなくて、語りたかったのかもしれない。

競うようにあふれるようにして吐き出された言葉にどう答えたら良かったのか、答えるんじゃない、ただ、聞くことだったんだ、と、いまもぐるぐると考えています。

90代になる男性の家に行った今朝。 おら漁師が好きやったもね。そこにちいちゃか(小さい)木の生えとろう?その木から向こう、こん家の目の前はもう海やったっばい。そこに舟がつないであったっばい。家から出て、1メートル。移動はぜーんぶ舟か、里道たい。

おら漁師が好きやったもね。家の前でよう地引網のありよったが、網の中に入っとる魚ば見ればたい、もう、なんとも言われん。学校から帰ったらカバンはブイやって、海に出てみんなの手伝いばした。9歳のときに親父が果ててな。その前もあとも、家のおかずは全部、わがでとりよった。 学校ば上がる頃になってな、母親が俺に中学は行かんで、漁の出稼ぎに行けち言わしたもん。俺は3月生まれやけん12歳か。どげん漁が好きちいうたっちゃ、周りはみんな中学校に上がるもね。学校に行くごたったたい。本当は。俺みたいな子はおらんやったもね。しかし大人に言われたら、聞かんわけにはいかんがな。

小学校までな兵隊の練習ばっかりやったもね。勉強と半々かな。だけん、字な書けんし、読めんやったもね。学校ば上がってからはそのことで、ずいぶん悔しか思いばしたばい。自分の住所なっと書けるようになりたかち思って、だけど鉛筆も紙もなかがな。漁の合間合間にな、浜辺に行って、棒ば拾って、ジダに字ば書いて覚えてね。

もう10年ばっか前になるかな。進学校の先生がうちに来てたいな、話ばしてくれち言わすもん。俺も面ん皮の厚かな、字も書けでおって引き受けて。先生が会場で言わすもん。「どうして学校に行けなかったか話して聴かせてください」ち。おら話すごとなかった。幸せな話ば語って聞かせるととは違うもね。おら本当は行きたかったもね、学校に。それでも仕方んなか。ジダに字ば書いて覚えた話ばしたよ。そしたら子どもが「地面に字ば書いて覚えたという話は聞いたことのあるばってん、実際に書いた人の話は初めて聞いた」ち言うて喜んでな。

泣き笑いの顔をしたAさんに、他にはどげん話ばせらったっですかと尋ねると、潮の満ち引きについての話ばしたよ。どげんやって魚ば見つけるか。今は魚群探知機があるばってんか、昔は潮で魚ば見つけに行きよったもんな。そげん話。そして、川本輝夫さんが俺に言った話たい。昭和7年か8年からチッソは水銀ば垂れ流しよったっばいち。ということはよ?考えてみらんかい。俺は学校前から水銀入りの魚ば食いよったちいうことたいな。という話。

いつも前日にからす曲がりがあった日は一日中寝ているAさん。 長い時間、足がつるとたいな。そげんして全身で足の痛みばこらえておれば、今度はもう片一方の足がつるげな。そげんなると、もう、朝は起きときなれんと。全身がもう、疲れ切ってしもうてな。力は入らんわ、体は痛かと。昨日は久しぶりに何事も起こらず、おしっこにしか起きらずに眠れたもんな。 久しぶりに体調が良かったAさんは、よくしゃべった。一時間以上続くAさんの話は、聞くあいだよりもむしろ、聞いたあとの方が長い。Aさんの言ったことを、考えないわけにはいかなくなる。 行くと必ず、おら、漁師が好きやったもね、と聞かせるAさん。前に二回だけ、息子や娘が俺と同じ症状が出て初めて、俺は漁師になったことば後悔せなんとかなと思った、と話されたことを思い出す。誇りを持って漁師を続けてきたAさんの、はじめての後悔。

Aさんがしたくないと思った話を、きっとそうとは思わずに進学校の生徒に聞かせた先生は「学校に行けなかった」Aさんの、何をこどもたちに伝えたかったのか。泣き笑いのAさんは、こどもたちに「なぜ学校へ行けなかったか」を話しながら何を思っていたのか。

例えば水俣病の人たちは、いつもどんな思いで人前で語るのだろう。わたしは、その人が語りたくないことを、語ってくださいとお願いしてはいないだろうか。

いつか誰かが言っていた、「あげんところで語って聞かせるもんな、語って聞かせる資格のあるもんやもね。網元のコォ(子)やら、地域の長やら分限者(金持ち)やら」という言葉。資格とはなんだろう。大勢の人の前で語るあの人と、たったひとり、私の前で語るあの人は、一体何が違うんだろう。

Aさんの言葉には含蓄があり、どれも大事だと思いながら聞いていると頭がいっぱいになる。いつも人前でどっしりと構えて、人との間に入ったり、人を説得したり、大切なときにだけ意見したりするAさんのことを、私は尊敬したり、すごい人だと思ったり、軽口は決して叩いちゃならんと思ったりする。

だけど、こうして家に行くと、ときどきAさんは自嘲気味に自分を語る。おら字も知らでおってとか、学校も行かでおってとか。私は悲しくなる。字が書けないことは人としてのAさんをちっともおとしめることにはならない、とか、学校は単なるその人の付属品、ということを、どうやって言ったら伝わるんだろうと考えて、結局気の利いたことは何も言えないのだけれど、でもこの地域で生きて信頼を得て、水俣病の闘争を切り抜けて、「患者の不利になることはならん」と言い続け、いまもこうして「漁師が好きやったもね」が口癖のAさんは、きっと十分に自分の価値を知っている。若い私がそのことを簡単に言うことはできないし、言わなくたっていい。私がAさんのことをこうやって、すごいなと思って、心から尊敬していたら。

Aさんと会うと、いつも胸を掴まれたようになる。大事なことをいっぱい教えてもらう。